浮月堂黄昏抄

風流なライフスタイルのために

「春琴抄」

No.3567(再)
【今日の1冊】
究極のマゾヒズム小説
春琴抄

今日は谷崎潤一郎の1933年発表の純文学、いや耽美派小説の最高峰で究極のマゾヒズム小説「春琴抄」だ。

大阪の薬問屋の娘で、容姿端麗な春琴は9歳の頃に病気で失明したが、彼女は三味線の才能を持っていた。
春琴に仕え、世話係をしていた佐助も三味線を学ぶようになり、彼女の弟子となる。春琴は気性が荒く稽古は激しい。撥(ばち)で殴られ、叱声が響き佐助は泣く。しかしそんなサディスティックな師匠の人格否定のレッスンを佐助は待ち遠しく感じるようになる。
春琴が三味線奏者として独立した後も変わらず佐助が同行し、我儘な春琴の世話をした。春琴の三味線の才能は世間に広く知られるようになる。しかし春琴の指導は厳しく、また、豪華な中元歳暮を贈らない弟子を認めず容赦なく破門した。そのために春琴を恨む者も多かった。
ある夜に何者かが屋敷に侵入して春琴の顔に熱湯を浴びせ、彼女は顔に大きな火傷を負う。酷く爛れた自分の顔を佐助に見せたくないと、春琴は佐助を拒むのだった。
春琴を慕う佐助は自分の両眼を針で突き、失明する。愛する春琴の爛れた顔も見えなくなった彼はその後も彼女に仕え続ける。後に佐助も琴の師匠となるが彼は結婚せず、終生春琴の世話を続けた。

初めて「春琴抄」を読んだのは確か中学の頃だった。当時は弟子の佐助の春琴への究極の愛だと解釈していた。それは当時、山口百恵三浦友和で「春琴抄」が映画化されていたことも関係している。
しかし青年期以降、谷崎文学を読み続けて、耽美派小説(究極の美を追求する偏愛的な小説)を理解すると、女王様な春琴に仕えるマゾヒストな下僕・佐助のSM的な小説であることがわかってくる。
裕福な商家の娘ではあっても、盲人でサディスティックな春琴に、全身全霊で仕え、眼を針で突いて自身も盲人になるあたり、谷崎潤一郎だと震撼する小説なのだ。
★★★☆☆